現代の日本では、晩婚化が進み結婚適齢期の未婚率が上がっています。中でも生涯未婚率は男性が20%・女性が10%で、後30年で倍増するともいわれています。
結婚となるとどうしてもお金や親戚関係や子供など様々な問題が出てきてしまい、それが面倒で結婚・恋愛しないという人、特に男性が多いです。しかし今よりも制約が多かった時代に、今ある以上の困難を2人で乗り越えたカップルも存在します。
そこで恋愛の大先輩というべき11組のカップルが、どのように努力したかを見てみましょう。その中であなたの参考になるポイントをぜひ探してください。
エドワード8世とウォリス・シンプソン
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「王位をかけた恋」として有名なのが、現イギリス女王エリザベス2世の伯父にあたるエドワード8世です。
王太子時代に社交界でアメリカ人のウォリス・シンプソンと出会い、彼女に一目ぼれをします。
当時ウォリスは人妻でしたが、エドワード8世は国王即位後離婚させて妃にしようとしていました。
しかし離婚を禁止するイングランド国教会と、平民であるのを理由に首相・国会から猛烈な反発を受けて退位する決意を固めます。
退位翌日のラジオで読まれた「愛する女性の援助がなければ、国王としての責務は果たせない」という退位文書は大変有名ですね。その後2人は世界各地に滞在していましたが、いつでも仲の良い2人であったといいます。
レーニエ3世とグレース・ケリー
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同時期に人気を二分したマリリン・モンローとは正反対の、クール・ビューティと言われたグレース・ケリー。
1955年にカンヌ国際映画祭に出席した際に会ったレーニエ大公と恋に落ち、映画女優として人気絶頂中であったにも関わらず、女優を引退し1956年に結婚します。
ここまで見ると現代のシンデレラ、といった風ですが、結婚後慣れない異国で激変した環境に慣れる事やフランス語習得までには非常に大変な思いをしたと、本人が語っています。
それを乗り越えられたのは、心に持つしっかりした信念と理解しあえるレーニエ大公がいたからなのでしょう。
明智光秀と妻木煕子
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歴史に詳しくないと明智光秀のイメージ=本能寺の変ですよね。しかし素晴らしい愛妻家の一面もあります。
当時にしては珍しく側室を置かず、妻は幼少時から婚約していた煕子でした。結婚前に煕子が天然痘に罹り、顔・体に酷い痘痕が残ってしまい、これを憂いた煕子の父親は、代わりに煕子と瓜二つの妹を光秀に知らせずに寄越します。
別人だと気づいた光秀は「容貌など歳月や病気でどうにでも変わるもの、ただ変わらぬものは心の美しさよ。」と妹を送り返し、煕子と無事結婚するエピソードがあります。
光秀が内面の美しさが大事と言い切るほど、煕子は素晴らしい心の持ち主だったのでしょう。結婚後の貧乏時代には、煕子が度々髪を売って生活費用に充てるなど献身的に夫をサポートしました。煕子は、最後は明智一族と一緒に自害したといわれています。
源頼朝と北条政子
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鎌倉幕府を開いた源頼朝は1159年の平治の乱で平氏との戦いに敗れ、罪人として伊豆に流されていました。
その監視役が北条政子の父、北条時政です。それが元で知り合うようになり、頼朝は政子に文を送り次第に恋仲になってゆきます。
これを知った時政は、政子と伊豆の平氏のトップに嫁がせようと急かします。しかし政子は結婚式直前の嵐の夜に館を抜け出し、頼朝の所へ身を寄せるようになります。
その後は頼朝の鎌倉幕府の基礎作りを味方についた北条氏が全面バックアップし、1199年に頼朝が死亡した後は尼将軍として幕府をまとめる働きをします。
政子のこの情熱が、頼朝と鎌倉幕府を支える一本だった事は間違いありません。
楊貴妃と玄宗
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玄宗は武術・芸術・科学に秀でかつ民衆のための病院を作るなど、唐皇帝の中で最も名君と言われている人物です。
しかし、宮中に召され息子の妃となった楊玉環を見てから、後宮最高位の貴妃を与え楊貴妃の一族を取り立て望むものは何でも与えるなどして、名君の名は地に落ちてしまいます。
結局、楊貴妃と楊一族は安史の乱で全員殺されます。楊貴妃は道端に埋められ、一緒にいた玄宗は首都で半軟禁状態に置かれ6年後に死亡しますが、その間楊貴妃の遺体を改装させた際に持ち帰った匂い袋を持ち、楊貴妃が描かれた絵を毎日眺めていたと言います。
玄宗は長恨歌にある「在天願作比翼鳥、在地願爲連理枝」のように、平民の男性のように最後まで愛しい人と一緒にいたかっただけなのかもしれません。
愛新覚羅溥儀溥傑と嵯峨浩
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愛新覚羅溥儀溥傑は、清朝および満州国最後の皇帝である愛新覚羅溥儀溥儀の弟です。
関東軍は、自分達の主導で出来た満州国を日本領土にしようとします。日本に留学していた溥傑を日本人女性と結婚させて次代皇帝を確保しようと画策し、公家である嵯峨公爵家の浩と見合いをさせ結婚が決まります。
終戦まで2人は満州で暮らし、その後溥傑は日本亡命中にソ連軍に捕らえられ、浩と次女は中華民国内を転々とします。浩と次女が日本へ戻ってきたのは終戦から2年後、溥傑はその13年後に中国で釈放されます。その後はずっと中国で浩が亡くなる1987年まで仲睦まじく暮らし、国境を越えた愛として多くの作品の題材となっています。
マリアテレジアとフランツ1世
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政略結婚ばかりだった18世紀、初恋を実らせた女性がいます。オーストリアの女帝マリアテレジアは、5歳の時に会ったロートリンゲン公爵家のフランツに恋をし、その思いを貫き結婚に至ります。
ロートリンゲン公国はハプスブルグ家に比べると小国なので反発する意見もありましたが、カール6世の後押しが決め手となりました。
その後は共同統治者としてマリアテレジアが政治を、神聖ローマ皇帝に即位したフランツ1世は経済や農業などでオーストリアを発展させます。
フランツ1世は自分には政治が向かないと判断し妻に任せ自分は得意な方面で貢献するなど、当時の男性にしては柔軟な思考がマリアテレジアの心の支えとなっていたのでしょう。フランツ1世没後、マリアテレジアはその後生涯喪服を着用し続けました。
ヴィクトリアとアルバート公
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大英帝国が繁栄を極めた19世紀、玉座についていたのがヴィクトリアです。
18歳で女王となり、ずっと彼女の共同統治者として心の支えになっていたのがザクセン公子アルバートです。
身長は167cmの小柄ですが教養と美貌を兼ね備えた公子で、引見した2日後にはヴィクトリアから結婚を申し込んだといいます。
女王の夫であっても外国人という立場から長い間爵位を与えられなかったアルバート公ですが、イギリス経済の発展に寄与し影で国政に参加し女王を支えます。また9人の子供に恵まれるほど仲がよく、アルバート公が亡くなってから女王は亡くなるまで喪服を着用していました。
八百屋お七と吉三郎
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歌舞伎・浄瑠璃の有名な題材「八百屋お七」は、実際の事件が元になっています。お七が親と共に火災で寺に非難した際出会った寺小姓生田庄之助と恋仲になります。
寺から戻ると親にも反対され、思いつめた挙句もう一度家事になれば会えると火を付け、放火の罪でつかまり火あぶりになるという事件です。
これほどまでの愛情をぶつけられた庄之助は事件の後出家し、お七の菩提を弔うため目黒不動から浅草観音まで40kmの道のりを参る1万日の行を27年かけて行いました。
他のカップルとは違い、困難を乗り越えられなかった悲劇としてご紹介しました。
大山巌と山川捨松
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この2人は、会津戦争で捨松が会津城に篭城していた時に大砲を打ち込んだのが薩摩藩の大山巌だった、という敵対関係にありました。
そして後妻が必要だった大山が42歳の時に24歳の捨松を見初めて結婚した、など障害が山積していると思われました。
しかし語学が堪能な大山と津田梅子らと共にアメリカに長期留学していた捨松は、互いの西洋文化と生活習慣の理解に共通意識を持ち、また互いに捨松の美しさと大山の大らかな性格に惹かれあい、本人達はとても仲が良かったといいます。
捨松は初めて看護学校を開設し大山は日清日露戦争で元帥陸軍大将として勝利を導くなど、夫婦で近代日本の発展に多大な貢献を残しています。
キャサリン・オブ・ヴァロアとオウエン・テューダー
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この時代は王侯貴族と平民は言葉も習慣も何もかも違い、その垣根を飛び越えるのを考える事すらありませんでした。
百年戦争で活躍したヘンリー5世の妃キャサリンは、ヘンリー5世死後、騎士の従者であるオウエン・テューダーの間に子供をもうけます。
騎士の従者といえば平民ですから、この関係は国会で問題となりキャサリンの再婚を禁じる法律を成立させます。
彼らの孫がヘンリー7世としてテューダー朝を開き、ここから大陸に目を向けるよりもブリテン島のみでの発展を目指すようになります。
まとめ
お互いを思うのはもちろんですが、フランツ1世やアルバート公、妻木煕子のように自分の立場を見極め影に立って夫・妻をサポートする、というのは最近では中々見ないのではないでしょうか。
結婚したい・恋愛したいと思っている人は、気になったカップルの詳細を調べてみてはいかがですか。